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2004年4月13日 (火)

ハービー・マン

Memphis ドリフターズのチョーさんが亡くなった日、たまたまこのハービー・マンが亡くなったという話を耳にした。後でよく調べてみると、その日になくなったのではなくて昨年の7月だったらしい。全然知らなかった。

ハービー・マンはアルトサックスとフルートを得意とするジャズマンだが、おそらくは営業的配慮からキャリアの後半をフルーティストとして過ごした。ここに掲げた写真は彼の大ヒット「Memphis Undergroud」である。当時はまだ珍しかったジャズとロックの融合を最初に成功させた作品と言ってもいいんじゃないだろうか。

たまたま、ハービー・マンの死去の話を聞く前の週あたりにこのCDを店頭で見ていてちょっと欲しくなり、でもいまさらこんなの聞いてもなぁ、と思ってやはり買わなかったのだった。

タイトル曲であるMemphis Undergroudはシンプルなメロディと特徴あるベースラインでわりと好きな曲だった。ケータイの着メロにしてやろうと思って地下鉄で打ち込みつつ耳で聞いて確かめるということを繰り返していると、前に座っていたお姉さんになんとなく見られているような気がしていて、曲が完成したときに私はどうやらうれしそうな顔をしたらしく、そのお姉さんが吹き出してしまったということがあった。

ハービー・マンはこのMemphis Undergroudの成功の後、新人ミュージシャンの育成に力を入れる。育成型プロデューサーとしてエンブリオ・レーベルを立ち上げ、新人の発掘に注力したのだった。このエンブリオからはミロスラフ・ビトウスやロン・カーターが初のリーダーアルバムを出すなどの成果を上げている。ほかにもアッティラ・ゾラーやフィル・ウッズなどがこのレーベルからアルバムを出しているが、フイル・ウッズは当時もう新人とは言えない活躍をしていたはずだなぁ。

他にもハービー・マンはチック・コリアの希望を聞き入れてチックの憧れのベーシスト、スティーブ・スワロウを組み合わせてアルバムを作ったりした(Tones for Jones Bones)。

こういう功績がどういうふうに彼の人生に影響を与えたのかよくわからないのだが、新しいことにも意欲的に取り組んでいて、日本に来たときにはなんと小坂明子(あな〜た〜にいて欲しい)に一緒にアルバムを作るべく声をかけたが、小坂に「あんた、誰?」といわれたとか。でもなんかアルバムがあったような気もする。

どうでもいいことだが、彼はもともとユダヤ人で本名はなんだか難しくてよく覚えられないものだったのを簡単で覚えやすいものにした、という話もどこかで読んだ。そういえばどこかしら「商売に敏感」という感じがあったなぁ。

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