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2004年10月の8件の投稿

2004年10月31日 (日)

JAZZ ROCK

もう死語だけど、JAZZ ROCKという言葉があった。たぶん1960年代だ。ジャズの方から見ると、「ジャズの人がロックをやっている」という見方になるのだが、ロックの方から見ると「ロックの人がジャズよりのことをやっている」と言うことになるので、これは全く話がかみ合わない。

私の理解では(Jazzの方から見た見方)、Gary Burtonの「Duster」(1967)がJAZZ ROCKの走りだと思っている。このアルバムにも参加しているLarry Coryellがそれ以前になにかやっていた可能性はあるが、レコードとしては残っていないようだ。

そのあたりから始まったJazz ROCKのピークはやはりGary BurtonがKeith Jarrettと競演した「Gary Burton & Keith Jarrett」(1971)ではないか。って、Gary Burtonが好きなのでついついそっち寄りになるのだが。

その路線を踏襲したグループもいろいろあったと思うのだが、それらはその後「クロス・オーバー」などと呼ばれたり、あるいはマイルス流のロックの取り込みによってブラック・ファンクの基礎となる。実際にファンクがその形をなしたのは、Herbie Hancockの「Head Hunters」(これ、何年だろう? 1972? 1973?)が出てからになる。

ジャズロックはそれに続く「クロスオーバー」、「ファンク」、「フュージョン」を生み出す基礎となった。そして、それらがジャズを衰退させることになるのだった。

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2004年10月29日 (金)

童遊リメンバ

ふと思い出したのだが、十数年前、子供の遊びを後世に残したいなんていうことを考えていたことがあって、当時のニューメディアであったパソコン通信という場を借りてそういう「子供の頃に遊んだ遊びを集めよう」と言うふうなことをやっていた。そのときのタイトルが「童遊リメンバ」だったわけだ。

結局、当時はまだハードディスクが高くて、というのはつまりパソコン通信の「書き込み」を格納するサーバの容量がちっちゃかったものだから、書き込まれたものは一定の期間を過ぎると削除されてしまうという仕組みになっていたので、当時書いたものは残っていないのだった(一部はCDROMに焼いてもらうことができて配布された)。


で、WEB真っ盛りの今、そういう動きはないのか? と思って捜してみると、いろいろあるみたいだ「子供の遊び」というキーワードで検索するといろいろ引っかかってくる。

私が小学校の頃よく遊んだのは「ろくむし」というゲームだった。これは野球の変形である三角ベースで、軟式テニスボールみたいなもの(我々はこれを「やらこまり」と呼んでいた、やらこい、マリ(ボール)である)を下手投げで投げて平手で打つ。バットもグローブもいらない子供の遊びである。

ここで詳しくルールを説明する気はないのだが、ボールを打ったランナーはベース(直径1mくらいに丸く書かれた円である)へ走り込むのだが、ベースに入っていないときにはヤラコマリをランナー目がけて投げるのである。当たればアウト、逸れれば走り続ける。

そんなふうにして、ランナーが三角ベースを6周すると、自分のチームのアウトになったメンバーがすべてセーフになるのだった。

ところがこの「ろくむし」をWEBで検索すると、こういうルールはむしろ少数派っていうか、こういうのは見つからない。全然違うみたいだなぁ。

このゲームのさらに変形が「まりあてん(マリを当てる)」という、ベース二つでやる遊びだが、これらの遊びをさんざんやると、飛んでくるボールをよけるのがうまくなる、というかあるいは飛んでくるボールを受けようとせず、ひたすら逃げるという習性が身に付いてしまうのであった。

ちなみにこれは北摂というのか、大阪市の北に隣接する摂津市というところでの話。

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2004年10月28日 (木)

Bフレッツへの勧誘

この間の日曜だったか月曜だったか、電話があって出てみるとBフレッツの勧誘だった。50Mの光ファイバを16世帯で共有するのだという。「お住まいのマンションではもうすぐこの16世帯が一杯になるので、今お申し込みになられないと、次の機会が遠くなります。」というふうなことを言う。

では一体、ウチのマンションで何世帯が今申し込んでいるのだ? と聞くと「それはわからない」という。つまり、今何人申し込んでいようが、早く申し込んだ方が得ですよ、あるいは今乗り遅ると損しますよ、ということを言いたいらしい。そりゃそうだろうなぁ、YahooとかTEPCOとか競争会社多いもんなぁ。

でも、この言い方はかなり誤解を招く言いかただぞ、そういえば担当者の名前を行っていたけれども所属みたいなことことを聞かなかったような気がする。ほんとにNTTのひとなのかなぁ? Yahooの勧誘関係を引き受けているような会社なのかな? このあたりで私としてはもう入る気はなくなっていて、ちょっと遊んでみようかというスタンスになっている。


今私は12M規格のADSLで2~3Mbpsの速度で接続している。距離が2.7kmだから、まぁそんなものだろうと思うし、これでそれほど不満を感じることはないので光にする理由は今のところはないのだ。料金も結局3500円くらいで満足している。

料金を聞いてみると「最初の2か月は無料、工事費も(プロバイダによっては)無料、月額2980円(プロバイダ料金は別途)」ということなのだが、私の使っているDIONでは工事費が無料にならないらしい。「最初はぷららかOCNで入っていただいて、そうすると工事費が無料になりますから、そのあとでDIONに変えていただいて」って、ずいぶん大胆な提案だが、そんな面倒なことはしたくないし。

プロバイダ料金が別途ということで、DIONは900円だと思っていたのだが、今調べてみるとプロバイダ料は一律500円らしい。この点、この勧誘電話の担当者は知らなかったようだった。


この速度で満足できないようなコンテンツが出てくれば考えてもいいのだが、そうなったら今度は「50Mを16世帯で共有」ではきっともの足りなくなることだろう。ということでやっぱり見送り。

なんだかだらだら書いてしまいましたが、趣旨としては「他社の追い上げに焦ったNTTが無理な営業をかけていますが、言葉を真に受けて簡単に乗っからないように気をつけましょうね。」ということでひとつ。

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2004年10月20日 (水)

「最悪」「邪魔」奥田英郎

カタチあるものはすべて、いつかそのカタチを失う運命にある。熱湯も氷も放置しておくと室温の水になってしまう。部屋をキチンとかたずけても、いつのまにか散らかってしまうし、岩も長い年月の間には風化して砂になってしまう。

そんなふうにさせないためには、人為的な、あるいはなんらかの意志によって「再秩序化」することが必要だ。常温の水を熱湯にするにも氷にするにもエネルギーが必要になる。

これは「熱力学の第二法則」あるいは「エントロピー増大の法則」と呼ばれるもので、簡単に言うと「秩序あるものはすべて無秩序の方向へ向かう」ということだ。ちなみに「熱力学の第一法則」はいわゆる「エネルギー保存則」だ。エネルギーは不滅であってなくなることはないが、発散する。発散してしまったエネルギーは使うことができないということを言っているのが第二法則だ。

なんでこんなこと書いているのかというと、人生というのもそんなところがあるなぁ、と思ったので。漫然と暮らしていると、きっと人生は悪い方へ転がっていくのだろう。人生が風化していくのだ。

奥田英郎の小説は「邪魔」を先に読んでいて、その手法に興味を持っていた。複数の主要な登場人物を克明にリアルに描いてキャラクターとして確立させた後で、彼らの人生をグリグリとねじりあげてストーリーをひねり出していく。

各キャラクタのリアルさに引かれて読み進んでいくうちに、あれよあれよと言う間に彼らの人生が絡まりあい、ストーリーが展開していくのだ。キャラクタの動作のリアルさに比べて全体的なストーリーの練られ方が今ひとつだなぁ、というのが「邪魔」を読んでの感想だった(しかしなんちゅうタイトルだ!?)。

たしかに、そういう小説の作法というのはあるんだろうなぁ、と思っていて、筆力によって確立されたキャラクタが、「場」を与えられて行動を開始するというのもありえるだろうと思っていた。「邪魔」ではあちこちにそういう痕跡が見て取れて、リアルな描写が張りっぱなしで忘れられた伏線のように見えるところもあった。

「最悪」は「邪魔」の前に書かれた作品で、どうもこの手法を初めて使ったんじゃないかという気がする。「邪魔」は「最悪」での成功に味を占めてさらにこの手法を頭(ズ)に乗って展開したような感じだ(しかしどちらもなんちゅうタイトルだ!?)。



うん、いや、それで「最悪」を読み始めて思ったことが冒頭の「人生はほうっておくとどんどん悪い方へ転がっていく」ということなのだ。比較的平凡な生活を送っている主要キャラクタたちがいろいろな選択をするたびにどんどん悪い方へ落ちていく。もちろん、それが作者の意図なので、そこで作者の思惑とかが入るわけだが、そのあたりで作者のキャラクタに対する愛情のなさが露呈されている。

つまり、この小説は結果として(その手法の如何にかかわらず)平凡な生活を生きている人がいかに落ちて行くか、あるいは人生を風化させていくかと言う話なのだ。だから、はっきりいってこの話はおもしろくないよ。私なんかはあるキャラクタの悲惨な落ちざまに耐えられなくて、その人が落ちていく様子のところを飛ばして読んでいたくらいだ。

人生を風化させないためには、その再秩序化が必要だ。それは夢であったり希望であったり、人生のイベントであったり、他人との関係性であるのかもしれない。この小説の登場人物のように作者(あるいは不特定の誰か)の意図によって人生がどんどん風化しないようにするにはどうしたらいいのか、小説の登場人物ではない本当にリアルな我々は真剣にそれを考え続けなければならない。

この作品は「犯罪小説のターニングポイント」とか言われているようだが、私はお勧めしない。人の不幸を心の底から喜べる人にはきっと楽しいことだろうと思う。

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2004年10月17日 (日)

滅び行くJazz喫茶

今朝の朝刊によると、年収18万円ほどしかない新潟のジャズ喫茶にJASRACの職員が訪れ、(客として)営業状態などを尋ねたあと、過去10年分の著作権料として数百万円の請求書を送りつけたという。

過去10年の青色申告書を提示して、せめて収入以下にしてくれないかと頼んだのだが職員は目も通さず「人の音楽を流して金を払わないのはどろぼうと同じだ」と言ったという。

そりゃ、JASRACの職員はそれが仕事だから、そんな人と交渉してもしかたがないかもしれないのだが、しかしね、ジャズのCDがなんで売れると思っているのだ? 人々がジャズに触れる場所ってそんなにないだろ? こういう場所で宣伝費ももらわずに普及に努めている人たちがいるからこそジャズのCDが売れるんだよ。JASRACの職員も少しは自分のやっていることがどういうことなのか考えてみたらどうだ? どうせJASRACの上層部なんてどこかからの天下りで真剣に音楽のことを考えているわけじゃあるまい。

宣伝費は宣伝費、著作権料は著作権料、別々のものであってJASRACはそんなこと知りません、と。それは確かに一理ある。でもたったの一理だぞ。しかもその一理は音楽を滅ぼすぞ。

「こんな音楽があります」ということを広めることと、その音楽を楽しむことを区別することは難しい、楽しむ方にだけ課金し、広める方には課金しないということが難しいのなら、いっそそのどちらにも課金しなければいい。

課金すべきは、個人がその音楽をなんらかの形で所有しようとするときだ。CDを買ったり、着メロをダウンロードしたり、あるいはコンサート会場で音楽を聴くこと、さらにはカラオケでの使用に課金することに全く異存はないが、不特定の聴衆に対して音楽を流すことは「自動的に宣伝費と相殺される」ということで無料にすべきだろう。

先日、そういう「不特定聴衆を対象として音楽を流す」場所でイランの音楽を聴いた。これはなかなかおもしろくて、それについていろいろ知りたいと思うようになり、CDを探してみようと思うようになった。ま、たぶん町のCD屋にはないだろうから海外から輸入することになるだろうから日本の音楽業界には全く関係ないことなんだろうけどね。

昔よく行ったジャズ喫茶の話なんかを書いてみようかと思ったが、またにしよう。今思いつくジャズ喫茶の名前は「Pisa」「Knee Knee」「Output」「Junior」「Check」「Half Note」「さりげなく」「Trio」ちょっと離れたところで「Big Boy」「蝶類図鑑」。これでだいたい、年齢層と地域がわかるな。

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2004年10月11日 (月)

著作権に頼らない音楽ビジネス

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著作権に関して思うところを書いてみた。唄を歌うだけで大金をもうけることができるということに関して、考え方を変えた方がいいかもしれないということも書いたような気がする。

では、音楽ビジネスなんかはどうすればいいか?

それについて、2000年8月にさるBBSに書いたものがあるので紹介したい。


Title:新進音楽家発掘事業 11:35am 8/07/00

 まず、音楽家というかグループなのか、とにかく前途有望な音楽家を発掘してその活動主体を株式会社にする。つまり、その音楽家をメジャーにすることを目的として会社を作るのだが、その資金を最終的にはファンが分担する形にする。

 現状では新進音楽家は自分の力で活動資金を集めなくてはならない。それでカセットを売ったりアルバイトしたりするわけだが、そのカセットの代わりに、あるいはカセットに付属させて「株」を売るわけだ。この株は将来メジャーになったときに償還されるかもしれないし、されないかもしれない。株を買ったファンはその音楽家がメジャーになることによって自分の株の配当がもらえるので、応援にも力が入るというか、単なる応援だけではなくてさらにファンを増やすような動きをすることが期待できる。償還は現金になるかもしれないし、ファンクラブの特別枠かもしれない。

 上記は株のインカム・ゲイン(配当利益)に対する期待だが、昨今の株ブームではさらに株の売買による資金調達も期待することができる。つまり、新進の音楽家の株がまだ安いうちに買っておいて、人気が出てきたら株も上がるだろうからその時点で売りに出す。もちろんメジャーになるまで持っている方がよいのだが、すべての音楽家がメジャーになれるわけでもないので、見切りが必要になる、という見方をする人もいるだろう。

 人気と株の相乗効果ということもあるかもしれない。人気が上がると株も上がるだろうが、逆に株が上がることによって注目され、人気が出たりもするかもしれない。これは動機が不純ということでこういう動きを嫌う人もいるかもしれないが、そういう「株価先行型」というのはだれの目にもはっきりわかるので、淘汰されることもあるだろう。

 よい音楽家には株価が上がることを期待して、プロダクションがその株の発行を手続きし、まずその株を期待度に応じた価格で買い占める。そしてその株をファンに売る。ひょっとしたらその株はその音楽家の株ではなくて、そのプロダクション自体の株なのかも知れない。このあたりはよく考えるとうまい仕組みが作れるかもしれない。つまり、プロダクションが音楽家ごとに会社を作るのだが、音楽家はその従業員に過ぎず、経営主体はプロダクションの子会社である(個々の音楽家ごとの)マネジメント会社になるとか。そういうふうにしておけば、株主総会が音楽家自身の行動について口を出すことも少なくなるのかもしれない。

 まぁそういうわけで、問題点としては

・株式会社をいかに安く作るか・作った会社の株をいかにして流通させるか

 ということになる。株式会社を安く作るのは日本では難しいので、海外に作ることになるだろう。そうすると株の流通に関してもその国の法律に従うことになるのだが、今ならインターネットを介した株の売買が可能になっているから、たとえばi-modeの携帯電話で音楽を試聴して株を買ったりということができるんじゃないだろうか。

 ここで問題になるかもしれないことは、新進音楽家に対する識別眼である。自分の好みではなくて、「この音楽家は売れるか?」という観点から評価しなくてはならないからだ。自分の好みではない音楽家を「売れそうだから」という評価で売り出すのはなにか無理があるような気がしなくもない。

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ところが2003年11月にはこういうことを書いている。


音楽家じゃないんだけど、グラビアアイドルの証券化なんですと。

でも情報開示されないと、スキャンダルでおじゃんになったりするんじゃないのかな?


12月にはさらに詳細情報が。

グラビア・アイドルの証券化詳細

で、現状がこれ

なんか厳しいことになっています。5人のアイドル候補についてDVDと写真集を出して、それぞれ1000部売れないと続編は出さないという「足切り」が着々と行われている模様。すでに3人の写真集が足切り対象になっているのかな?

2005年1月30日 追記:

バンドファンドというものが発表された。スプラッシュ・キャンディーというバンドが一口一万円でファンドを募っている。東芝EMI,ソニーエンタなどが出資し、一般からも150万円を募るらしい。

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2004年10月 7日 (木)

著作権とコピーライト

C 著作権ってのはめんどくさい話だ。創作物に対する権利なのだが、表現に関する権利だから、その後ろだてとなる思想とか技法とかアイディアというものは全く問題にならなくて、単にその表現だけが問題となる。このへんをもうちょっと突っ込んでいくとおもしろいんだけど今回はそういう話じゃないので。

で、創作ってことになると新奇性とか独創性とか言う話になってわけが分からなくなる。しかし、別に審査があるわけでもなくて、例えば私がここに書くようなことも特に何を宣言することもなく著作物として存在することができるのだ。

そういう著作物を守るために財産権とか人格権とかつまり誰がそれを自由にできるかということについてまためんどくさいことがあるのだが、欧米ではこういうややこしいものではなくてコピーライトというものでコントロールされている。

コピーライトとは、そのまま「複製を作る権利」である。これは話が簡単だ。印刷物にしろ絵にしろ音楽にしろ複製することによってビジネスが生まれ、その複製を行う権利によってビジネスがコントロールされる。

思えば、LPを買ってそれをいそいそとカセットテープに(個人で楽しむために)コピーし、LPを傷つけないかわりに音質の低下を容認するという音楽生活を送っていたころは幸せだった。LPの複製を作るということは誰にでもできることではなく、メーカーがその権利だけでなく技術をも独占していたのだ。

ところがいまや時代はデジタルとなり、音楽を品質低下させることなくコピーする技術がメーカーだけのものではなくなり、PCを使えば誰にでも簡単にできるようになったために話がややこしくなってきた。

コピーコントロールCD(CCCD)なんていうおかしな技術によって音質を低下させてまでコピーを防止しようとしたり、PCにダウンロードした音楽はコピーできずに「移動(コピーするともとのものは削除される)」することしかできなかったりという、ある技術を無効にするための技術というネガティブなものに頭をひねらなければならないという時代になってしまった。


しかし、だ。コピーライトをそういう業界が独占するというのはつまり音楽なり画像なりデジタル化することによって利益を得ている業界がデジタルな技術をも独占するということだ。これっておかしくないか?

技術が発達してコピーライトで保護されていたものを保護するのが難しくなってきた。あるいはコピーするコストが下がり、またコピーする技術が一般に普及したにもかかわらずその技術と機会を独占しようとしているのだ。

これはひとごとじゃないよ。今総務省が一生懸命になって推進しようとしているTVのデジタル地上波放送が始まると、放送されるコンテンツは「コピーワンス」といって、一回しかコピーできなくなる。これはどういうことかというとTV放送をHDDレコーダに録画するとそれでもう一回コピーしたことになるから、それ以上コピーはできないのだ。大好きなお笑い番組を保存版のDVDとして残そうとしても、それはもうできなくなる。そういうのは別途買ってちょうだいね、というわけだ。

そんなのありかよ。技術が発達しているのに不便になるというのはどうしても承伏できないぞ。デジタル地上波TVなんてポシャってくれることを心から願うものである。世の中の流れというものは最大多数の最大幸福ということになっておるのだから。

(TV見ながら書いたので、なんだか変です。すみません。)

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2004年10月 6日 (水)

すごいぞイチロー!

Ichiro20041006 新記録がかかった試合は試合開始前からずっと見ていた。シズラーの257本に並んだときも、それを超えた258本、さらに259本目もしっかり見たし、HDDに録画したししっかりDVDに焼き込んで永久保存とした。

イチローはすばらしい。天賦の才に恵まれて、しかも努力を怠らない。小学生低学年の頃から、彼が所属する少年野球チームでバットが10数本並んでいても、イチローのバットは誰にでもすぐにわかったという。グリップのあたりが血で汚れているからだ。バッティングセンターと素振りで手のまめがつぶれ、その血で汚れているのがイチローのバットだったのだ。

そのイチローが新記録達成後の記者会見で質問を受けた。「ヒットを打つ秘訣は何ですか?」その質問に対してイチローはこう答えた「それはここでは言いたくありません。」

なんというまじめな答えだ!? ジョークではぐらかすとかそういうことは全く頭にはないのだ。「父親がリモートコントロールしているのです」とか「ニョーボが・・・」とか、何とでも言えただろうに、彼の答えは「言いたくない」これだけだった。


実を言うと、私はこの答えに少しがっかりした。ジョークではぐらかしてくれた方がまだよかったが、「ヒットを打つ秘訣」を素直に素直に話してくれればもっとよかった。もっとかっこよかったのに。

もちろん、そういう秘密を話してしまうと投手たちはそれに対する対策を考えてくるだろう。イチローはそれに対してまた新しい技を考えなくてはならない。

しかし、それこそがイチローの望んでいたことではなかったのか? 最高の敵と最高の場所で戦うということが?

いろいろな取材の報告を読んでいると、イチローは本当にぎりぎりの所まで鍛え上げた技で現在の位置を保っているらしい。私ごときがえらそーに「言っちゃえばいいジャン」と言えるレベルではないのかもしれないが、「ヒットを打つ秘訣」をオープンにして、他のバッタもそうやって打率を上げて、より高いレベルで勝負をするようになるのが、やはり理想じゃないのかなぁ?

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