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2007年7月15日 (日)

スタイルに悩む

「なにをやってもいい」と言われると、なにもできなくなるのはなぜだろうか?

 唄も下手だしカラオケも苦手なので、できるだけカラオケは敬遠していた。久しぶりにカラオケに行って発見したのだが、唄が下手なのはまぁしかたがないとして、カラオケを楽しむには自分のスタイルを持つことが大事らしい。つまり「ヤザワのエーちゃん風」とか「演歌風」とかいうふうにスタイルを持って歌うと、これは楽しいのだが、なんにもなしで自分の素のままで歌うと、これは全く楽しくなくて、これはつまり自分の唄がスタイル未満であることが原因で自分の唄を楽しめないらしい。

 「そういう小理屈をいわずに楽しめばいいじゃないか。」とか「お前の思うままにやればそれがお前のスタイルだ。」というツッコミが当然ながら予想される。

 まず前者に関しては「楽しくないから、それが何故かを考えるのだ。」と言っておこう。後者は欧米人あたりが言いそうなツッコミだが、生まれついての日本人たるワタクシは「スタイル」にもなんらかの規範を求めたい。つまりなんでもかんでもスタイルとして認めるというのではなく、スタイルに対してある一定のレベルを求めたいのだ。スタイルにレベルを求めるというのは我ながら僭越で心苦しいものがあるので、このレベルを限りなく下げることができればよいと思っている。

 ここまで考えてくると、このスタイルの話はカラオケだけにとどまらない事に気がつく。およそ人間のやるほとんどの行為について「スタイル」を問われる局面があり得るので、最初に書いたように「何をやってもいい」と言われたときに「何をしていいのかわからない」ということになってしまうのはそこで「自分のスタイル」を自分に問いかけてしまって、かつ自分がそれに応えられないためなのではないだろうか。

 ここで、「自分のやることは、それ自体がスタイルだ。」と言いきれる人は「主張の強い人」ということになる。自分のスタイルをスタイルとして認められない人は「何をしてよいのかわからない」ということになってしまう。

 「スタイル」を得る最も簡単な方法は、既存のスタイルを模倣することなのだろうが、自分のスタイルを認められない人に限って模倣を嫌い、オリジナルなものを求める。あるいは「模倣したものは自分のスタイルではない」という規範を持ってしまっているのだろう。

 自分の行動を無条件に自分のスタイルであるとして認められないのは、なにか日本人独特の気性のように思えて仕方がないのだが、なにかこのバリヤを突破するうまい方法はないものだろうか。

 結局のところ、どうもこういうことらしい。

1)何をやるにしても、スタイルを持たないと評価されない。
2)しかし、初めからスタイルを追い求めるのは間違っている。
3)スタイルはいろいろやっていくうちに身につくものだ。
4)スタイルを持たないうちはやりにくいのでどこかから借りてくるしかない。
5)借りてきた「スタイル」はいずれ乗り越えなくてはならないだろう。
6)スタイルを「確立した個人」から借りてくるとそこからの脱却が難しそうだ。
7)最初は「標準のスタイル」と信じられているものを借りるのがよさそうだ。
8)「標準のスタイル」というのはできるだけ個人色のない、最低限のもの。
9)しかし「標準」とはいっても、それはその時代の色とかが付いているので全く普遍的なものではあり得ないだろう。
10)ごちゃごちゃいわずに始めてみろ!

 こういうふうに並べてみると、あたりまえの話みたいだ。

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