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2010年2月28日 (日)

ゲームの主体に悩む

Miyasaka20091昨年のミス・ユニバースがどうなったかをご存じだろうか? 日本代表の宮坂絵美理は80余名の参加者から15名に絞られる時点で残ることが出来ず、言ってみれば「予選落ち」ということになってしまった。

そのドキュメントを見ていたのは昨年の夏頃のTVでだったが、そこで発見したのはミス・ユニバースというのがゲームあるいは「興行ビジネス」であり、各国に割り当てられたダイレクターがそのゲームの主体であるという事だった。

つまり、宮坂でも知花でも森でも、日本代表は実は誰でもいいのだ。各国のダイレクター(日本ではイネス・リグロン女史)が彼らそれぞれの戦略にしたがって各国代表を選別し教育する、そしてそれらの「代表」を競わせるのがミス・ユニバースのビジネスモデルなのだ。

例えばベネズエラのダイレクターは整形手術に何のためらいも持たないので、選抜した代表に(ひょっとしたら選別する前の段階で、かも)整形手術を施す。ミス・ユニバースで小国ベネズエラがよく優勝するのはそういうことがあってのことらしいのだ。

だから、日本代表が日本人の美的観点からみてどうだこうだというのは全くのナンセンスだ。そういうビジネスじゃないからだ。ダイレクターは世界という舞台で「他のダイレクターに勝つために」戦略を練るので、そこに日本国民がどう思うかなんて観点は全くない。

しかし、ミス・ユニバース日本代表の選抜と振る舞いについて日本国民が文句をいうのは無意味ではない。ミス・ユニバースのビジネスに対して「なんだ、あれはそういうものなのか」「別世界の話だな」「ダイレクターの戦いかよ」という形で日本国民の興味が離れて行き、日本における「ミス・ユニバース」というブランド価値が下がって行けば、それは「興行ビジネス」としての旨みが減ることになるので、イネスも考えざるを得なくなるだろう。日本国民の好みを入れて世界での勝負に負けるか、自分の戦略をやり通して日本国民のココロを離させるのか。


この話をあまり深く追求する気はないのだった。

気になっているのは、浅田真央や安藤美姫、さらにはキムヨナのコーチたちがすべて外国人であるということだ。ここにも「ゲームの主体」の移行が起こっていないだろうか?

野球のゲームで、直接ぶつかり合うのはバットとボールだが、バットとボールがゲームの主体であると考えるのはスポーツ器具メーカーだけだろう。ゲームの主体は選手であるし、またあって欲しいと思う。強力なコーチあるいは監督が出現してゲームの主体が監督やコーチ、またはフロントになっても、ファンはついて来ると思う。実際、野村楽天はそういうチームだったし。

オリンピックの浅田真央vsキムヨナは、じつはコーチの間での戦いだったように思う。浅田真央のフリーでの曲が「ラフマニノフ」と紹介されたとき、「ああ、ロシアだものなぁ。あのおばさんだものなぁ。」と暗い気持ちになった。もっと軽快な、明るい曲に出来なかったのだろうか? 曲は誰が選択したのか? 振付に浅田の意見は反映されたのだろうか?

キムヨナの演技は文句の付け所がない立派なものだったが、浅田とキムヨナのコーチが元・師弟関係にあったということが、どうも頭の隅に残って仕方がない。


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