幸せの総量で悩む
中国の高速道路で観光バスが転落するという事故があった。早速近隣の住民が駆けつけて、救助活動を展開するかと思いきや、彼らは負傷者には目もくれず事故現場から金目の物を奪い去ってしまった。
一方、彼の国のBBSでは「なぜ日本人は電車に乗るのに整列するのか?(そしてなぜ中国人にはそれができないのか)」という議論がなされ、「民度の差」という聞きなれない言葉で結論づけされているようだ。中には「日本人は馬鹿だから列を守るが中国人は頭がいいので列を作らない」という冗談なのか本気なのかわからない意見もあったらしい。
こういった話について、数年前に彼の国のエンジニアと話をする機会があった。車がすれ違えないような道の両側から車が進入し、どちらかが道を譲らなければならなくなったとき、中国では両者が直進しようとして争うが、日本では大きな争いにはならずにどちらかが道をゆずることになる。
この件に関して私は彼にこう説明した。「両者が譲らずに争うことは、総合的な社会的コストを高めることになる。日本人は総合的なリソースが少ないこともあって、どちらかが譲ったほうが社会的コストを低減することを経験的に学習しているからどちらも道を譲る事ができるのだ。」彼の国のエンジニアはその説明に深く頷いていた。
しかし、整列乗車の話を聞いて私はちょっと考えを変えた。
「幸せの総量」というものがあると仮定して、それは富であったり健康であったり、あるいはもっと抽象的なモノでもいいのだが、彼の国では「幸せの総量」が国家によって与えられているので、その総量は固定されており、人民はそれ競って取り合うことによってしかより豊かにはなれないのに対して、日本では国民の行動によって「幸せの総量」を増大させることができるので、競い合うよりも「和」の精神によって個々がより幸せになることができる。
図示してみるとこんなところか。
今度、かの国のエンジニアに遭ったら上記のような説明をしてやろうと思う。
そういえば、「幸せの街」という寓話を思い出した。「善良な人々だけを集めて幸せの街を作ります。あなたはその住民として選ばれました。」という甘い言葉で人(と金)を集め、いよいよその街へ入居というところで、主催者が金を持って逃げるという、「なんでその怪しさに気が付かないかなぁ」という疑惑満点の寓話だが、まぁ幸せというものは与えられるものではなくて、自分で作り出すものだ、ということですね。
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