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2016年12月25日 (日)

笑いの性悪説で悩む

M1グランプリ2016はスーパーマラドーナ、和牛、銀シャリの三組の決勝を銀シャリが制して優勝となった。ネタとしては和牛のほうが面白かったと思うが、ネタよりもコンビの経歴が優先したのではないかと思われる審査だった。年功序列なのかな? まぁ、それはそれでいいんだろうけど。

で、改めて「笑い」ということについて考えてみた。

最近の日本の笑いというのは「ボケとツッコミ」というパターンに類型化されているが、昔はもうちょっと別のパターンもあったんじゃないだろうか? 私はひところ東京型の笑いと大坂型の笑いがあると感じていたことがあって、それはどういうことかというと東京型が相方を貶めて笑いを取るのに対して大坂型は自らが「ボケ」ることによって笑いを取るというふうに感じていていたのだった。

そういう観点から言うと、当時の東京型の笑いというのは両者が「ツッコミ」ということだったのかな? で、そういうパターンは今や大坂型の「ボケとツッコミ」に席巻されてしまったのではないか、と思ったりする。こういうふうにワンパターンになるのはあまり良いことではないと思う。

では東京型の笑いというのはどういう芸人がいたのだったか?というと、よくわからないのだがビートたけし・きよしのツービートがそうだったかなぁ?コント55号ってどういう笑いだったかなぁ?立川談志ってどういう芸風だったっけ? とか思うだけで、Youtubeで調べればわかるのかもしれないが、今ウチのネット環境が劣悪で、ついにプロバイダを変えるという最終手段に訴えているところで、あんまりYoutubeを快適に楽しめないのでよく調べないまま書く。

で、「ボケとツッコミ」を見てなぜ笑ってしまうのかというと、それはひょっとして「あははは、バカだなぁ」という笑いなんじゃないか、と思ったりして。つまりバカな「ボケ」を見て、その行為に対する優越感で笑っちゃうのではないか、と。

そこまで考えたところで、ひょっとして笑うというのは他人の欠陥を見てそれを見下ろすことによる優越感の表明なんじゃないか? というあまりよろしくない考えになってしまった。笑いというのはもともと幸福感の表出だったはずなのだが、その幸福感というのが実は他人に対する優越感による幸福感だったりするのか? というふうにまで考えたりして。人間の性悪説を掘り当てたような気がして、なんだかよくないなぁ、と思っていたのだ。

しかし、子供が笑うのを見たりあるいは女性が笑うのを見たりすると、なんだかそういうのはほんとうに幸福感の表出を感じるので、まぁ人間の笑いも捨てたものじゃないかな。女性の笑いにはまた別の意味もあったりするような気もするのだが、そん話題は危険なのでちょっと近寄らないことにして。

そんな「笑いの性悪説」に取りつかれてから、人が笑うたびにその笑いの性質を考えるようになって、そうすると男の笑いっていうのはなんだかあんまりよくわからない。で、自分はどうなのかというと、あんまり笑えなくなってしまったのだった。

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