カテゴリー「書籍・雑誌」の25件の記事

ジャズ系小説で悩む

Takiさんのblogを見ていて思い出した。

筒井康隆の小説でジャズの曲名をタイトルにしたシリーズがあった。それが一冊の単行本になっていて、私はそれを持っているはずだ。

「男たちのかいた絵」というのがその本のタイトルで、同名の映画にもなっているのだが、その映画はこの本とは関係がないように思う。筒井の別の本「俺の血は他人の血」(エスクレメント~はキーワード)を基にした映画ではないだろうか。

で、その本「男たちのかいた絵」を発掘してきたので紹介しよう。

本の腰巻には「●著者のことば」として、

>この連作を書きはじめる時、ぼくは自分に次のような制限を加えた。

(1) 女を出さないこと。
(2) ジャズのスタンダード・ナンバーの曲名をタイトルにすること。
(3) 症名のある異常性格、異常性欲の持ち主を主人公にすること。

>その結果、オナニズム、同性愛、マゾヒズム、虚言癖、エディプス・コンプレックス、多重人格、ソドミズム(獣姦)の持ち主を主人公にした八つの短編ができた。

>なぜ小説を書く上でそんなつまらない束縛を加えたかというと、別に意味はない。いわば著者の趣味だったわけである。

というわけで、この本は人には薦められませんが面白いんです。

Picturesdrawnbymens


ちなみに、8つの短編のタイトルは、

・夜も昼も
・恋とは何でしょう
・星屑
・嘘は罪
・アイス・クリーム
・あなたと夜と音楽と
・二人でお茶を
・素敵なあなた

アイス・クリームなんていうスタンダードは知らないけど、まぁ世の中には私の知っていることよりも知らないことのほうが多いので。

で、ここまで書いて思い出したが、映画「男たちのかいた絵」はこの中の「二人でお茶を」という多重人格ものを映画化したのかもしれない。一方で「俺の血」はこの話を別途発展させたものなのかもしれない。

なんにしてもその映画を見ていないので、無責任発言でした。

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人に勧められない本で悩む

例えば、猫とねずみと、そうだなあ、あとは蛇とゴキブリとかを一緒にひとつの箱に入れて、さてどうなるか? ついでにちょっと頭がおかしくなるガスでも注入しておこうか。

とまぁ、そういう趣味の悪いことを平気でやってしまって、小説にしてしまうのが桐野夏生だ。

Imsorrymama 今回もまたやってくれました。「I'm sorry, mama. 」。う~ん、もうこれどうしようもないなぁ。出てくる人の誰にも共感できないのが救いって言うか、一人ちょっとかわいそうな人がいたけど、これで深く共感できる人がいたらつらいなぁ。

こういうのをさらっと書いちゃう人って、どういう人なんだろう?

とにかく、面白いとは言わないけれども、つまらなくはない。面白くないわけでもないんだけれども、友達に勧める気にはならないなぁ。という問題作。

もっと膨らませれば膨らむ話なのにそうしなかったのは、やはりそれだけ力を入れるものではない、という判断があったのだと思う。

まぁ桐野ファンは進めなくても読むだろうからね。

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読売的文章?に悩む

面白い本として紹介した「現代日本の小説」だが、一点どうしても納得できないことがある。

それは88ページの冒頭なのだが、こんな文章があるのだ。

「選考会すでに始まっていたその日の夕方六時過ぎ筆者は「すばる」編集部のある東京・千代田区猿楽町の集英社猿楽町ビルに向かった。」(元の文にカッコはない)

最初の文は何?五七五七七の体言止め?

私ならこう書く。

「選考会すでに始まっていたその日の夕方六時過ぎ筆者は「すばる」編集部のある東京・千代田区猿楽町の集英社猿楽町ビルに向かった。」

変えた部分の色を変えてあるんだけど、わかるかな? 「は」→「が」、「。」→「、」という変更で、私でなくてもこれが普通だと思うんだけど。

私が不安を覚えるのは、ひょっとしてこれは私の知らない日本語の新しいスタイルなのではないか?と考えるからだ。

文芸部のベテラン記者がこんなおかしな文章を書くのには、きっと何かわけがある。編集者のチェックを通過し、校正を通って出版されるのだから、うっかり間違いであるはずがない。

読売新聞を半年ほど購読していたことがあったのだが、読売の使う文章には私にとって何か違和感があって、結局朝日に戻してしまった。読売にはなにかそういう文章スタイルというのか文化というのか、そういうものがあるのだろうか?

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文学の未来を語れなくて悩む

Modernjapanesenovels

「現代日本の小説」 by 尾崎真理子

この本は朝日新聞の書評欄で見つけた。すぐアマゾンで検索して注文したのは、面白そうだったというよりも「電子化された小説制作作法の影響」というものがどんな風に書かれているのか興味があったからなのだ。

筆者は読売新聞の文芸部ベテラン記者である。主に各種の文学賞の審査員や受賞者の書いたものや彼らとのインタービューの経験から日本のここ20年の文学状況を俯瞰している。

この本はいろいろな面で面白かった。単に「最近この本が面白い」みたいな読み方でも満足できるのではないだろうか(実は同類の本を読んだことがないのでよく知らないのだけれども)。

実際、この本の中で紹介されている本のなかにはまたアマゾンで注文してみようかという本が何冊かある。そういう意図で書かれている本ではないのだろうけれども、まぁ文学の未来を語ってみたって仕方ないと思うし。

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難解英語小説の訳本に悩む

Americandethtrip 本屋をのぞいていたらたまたま見つけたのが、この「アメリカン・デス・トリップ」。へぇ、おもしろそうじゃん、と思って手にとって見ると、ジェイムズ・エルロイだ。

お、っと思ってぱらぱら見てみると書き出しに覚えがある。おお、これはあのCold Six Thousndではないか。原語で読もうと思って挫折したやつだ。

とかいいつつ買って帰ったのが実はもう2ヶ月ほど前だ。通勤のときしか読まないぞ、と勝手に決めているので読了までに2ヶ月かかってしまった。上下二分冊だし、読み続けるのに時間があいてしまうとわけがわからなくなって読み返したりしているし。

いやなにしろ、ブラックダリアのときに懲りているので、人の名前は厳重チェックだ。今回も混同しがちな名前があって注意が必要だ。

Cold6thousand 話の内容は凄いよ。なにしろ冒頭のシーンのバックになんとなく流れるニュースがケネディ暗殺だ。話が進むにしたがって歴史的事実であるキング牧師とロバート・ケネディ暗殺が、ええとなんていうか、題材となっているというかなってくるというか。

原語の文章も凄かったが(ほんとにわからなかったのだ。冒頭の部分を見ていただこう)、日本語訳もなかなかのものだ、訳者はさぞ苦労したことだろう。

エルロイのファンでなくても、ミステリ好きとか、陰謀好きのかたにはぜひお勧めしたい一冊です。

Wjlittel

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ポーの影に悩む

Poeshadow 初めてポーの「黄金虫」を読んだのは小学校のときだった、と思う。これは面白い、と思って家にあったポー全集を通読した。これが私のちょっと(?)ひねくれた性格の基礎になっている。子供のころの思い込みは怖い。

ポーの考え方は、「モルグ街の殺人」や「盗まれた手紙」などで活躍する名探偵「デュパン」のセリフとして語られる。「一般に信じられていることを否定する人のことをと、人々は頭がいいと思うんだよ。」という言葉を今も鮮明に覚えている。ほかにもポーから学んでしまって、今も払拭できないことは2,3あるのだが、まぁそんなのはこのblogでもあちこちに散見されることなので、いちいちかミングアウトすることもないだろう。

そんなわけで、この本もタイトルの「ポー」の一言で食いついてしまったのだった。

この本は小説の形をとってはいるが、ある種の論文である。ポーの死にまつわる謎を解こうとするのがこの論文のテーマである。

エドガー・アラン・ポー(本人はこのミドルネームを嫌っていたらしい)は1849年10月7日にボルティモアの病院で亡くなった。40歳であった。ポーはそのときボルティモアにいるはずではなく、その滞在自体がなぞであり、死因については衰弱死としかわからないが、なぜ衰弱したかは誰にもわかっていない。

この本は、すでに公開されている情報と、著者が新たに発掘した情報を頼りにポーの死の状況を推理したものである。いわゆるポー研究家のこれまでの調査に異を唱えるものではあるが、ポー研究家にもそれなりの評価を得ているようだ。

この本の小説としての面白さは、ポーの死因をデュパンに語らせていることである。デュパンはポーの創作した創造上の人物だが、その人物像にはモデルがあるとし、そのモデルがこの小説に登場するわけだ。

なので、この小説は基本的にホームズ・ワトソン型である。つまり、主人公は単なる語り部であって一般人の見方や判断を象徴し、その相談役としてのホームズ/デュパンが突っ込み役として機能する、というわけだ。

その主人公役がいちいちまずいことをしてくれるので、読んでるほうはいらいらするのだが、これは作者の作戦であって、これに乗ってはいけない。とはいえ、本当にいらいらするなぁこの主人公、というかこれはノビタ/ドラエモン型なのかな?

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戦争小説に悩む

U307 戦争映画でも潜水艦モノが好きだ。DVDでもU571なんかはタイへん面白かったし、ロシアのK19も悲惨な話だがそれなりに楽しめた。

そういうわけなので、タイトルを見ていきなり食いついてしまったのだった。

軍事スリラーである。それも二次大戦モノじゃなくて現代の電子戦だ。ドイツ軍の潜水艦が英米を相手に戦うのだ。

筆者はもと米軍の対潜水艦特技官で、メカニカルな描写はよくわからないなりに迫力がある。時には兵器自体を主体として状況を描いたりしているのは、実際にそのようにして仕事をしていたのだろうと思わせる。

軍隊が現代的だなぁと思うのは、上級士官に女性が多いことからもうかがい知れる。実際はどうなのか知らないが、兵士にも女性が多く起用されており、男性兵士と同じように死傷する。

しかし、ロマンスな話は全くない。これは好ましい。

戦闘シーンでは息を飲む描写に引き込まれる。良質のカンフー映画を見ているような快適な緊張感が続く。本当にどきどきしてしまうのだ。こういうのは泉優二の二輪レース小説以来かも。

というわけで大変楽しめました。

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小説「ブラックダリア」に悩む

Blackdahlia 映画「LAコンフィデンシャル」が封切られたのが1997年で1998年のアカデミー賞を目指したが、この年には「タイタニック」がアカデミー賞を総なめしたために、「LA」は助演女優賞(キム・ベイシンガー)しかとれなかったのだった。

だから私がこの映画を見たのは多分1998年だ。レンタルのビデオだったのかDVDだったのか、とにかくツタヤで借りたんだろう。

しかし、正直言って、この映画はさっぱりわからなかったのだった。いやもうほんとにわからなかった。でもそういうことはよくあることだったので、気にすることもなくすごしていたのだった。

「ホワイトジャズ」という小説を読んだのは、多分1999年だったのではなかっただろうか。これは単にそのタイトルから白人ジャズマンの話かなと思って買ってみたのだった。ゲッツとかエバンスとかマリガンとかかな?と。

読み終わってから、この小説は「LA4部作」(当時は3部作と言われていたかもしれない)の3作目にあたる作品であることを知った。そうか、これがあの「LAコンフィデンシャル」の原作だったのか!!、ということで、改めて4部作を初めから読み始めたのがやはり1999年だった。

3部作の最初の作品がこの「ブラックダリア」である。若い女性が惨殺された迷宮入りの実話を元に、作者ジェイムズ・エルロイが事件を創造する。

ところがこのとき、私はこの小説をちゃんと読めていなかったようだったのだ。というのは主役級の二人の警察官「リー・ブランチャード(Lee Blanchard)」と「バッキー・ブライチャート(Bucky Bleichart)」を混同した上に、ファーストネームで呼ばれたりするときにどっちがどっちだったかわからなくなり、話を追いかけられないまま読み進んでいったのではないかと思われる。

で、この小説は私の中では消化不良となっていた。だからなのだろうか、この本は捨てられることなく、綺麗にケースにいれられて物置にしまいこまれていたのだった。

この本をもう一度読む気になったのは、映画「ブラックダリア」を見たからだ。印象薄いと思っていた原作から生まれた映画がこんなに面白いのなら、やはりこれは原作を読み直すしかないだろう。

というわけで、小説「ブラックダリア」を通勤電車の行き返りだけで読んだ。2週間かかったかな?

今回はブランチャードとブライチャートを混同することなく、映画のいろんなシーンを思い出しながら、明確に小説のストーリーを追うことができた。面白かった。後半は映画との違いがいろいろとあったが、それでも楽しむことができた。やはり映画は小説とは違った展開もあっていい。例えばこの話は極端に回り道をしたラブストーリーであるという見方もありだと思う。

LA4部作は、それぞれの主役が別の巻では脇役になっていたりして、野坂昭如のTV界黎明期の群像小説を思わせるところがある。「人生は人々の生き様が織り成す綾織りである」とはどこかのフランス人の言葉だが、その言葉を実感させるものがこの4部作には確かにある。

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残虐記で悩む

Zangyaku 最初に読んだ桐野は「リアルワールド」だったと思う。これは「何がリアルか? リアルとは何か?」という問いかけを投げかけるものだった。で、桐野は思いがけないところから「これがリアル、ってのもあるんじゃない?」というのを投げてよこすのだ。

「残虐記」は10歳の女の子が誘拐監禁される話だ。後味が悪いとも聞いていたから、読むのは気が進まなかったがなんとなく読み始めた。

しかし、少女が拉致されたところで先へ進めなくなった。私は自分でもどちらかというとサディスティックなほうだと思っていたのだが、こんなところで読めなくなるとは真性のサドではないようだ。

読み進めないまま、この文庫本は私のカバンの中に2ヶ月滞留していた。

今頃になって読もうと思ったのは、「ブラックダリア」とそれからもうひとつディックフランシスの本が部屋の奥から発掘されてきたからだ。桐野を投げ捨ててこれらの本へ進むわけには行かないし、現実的な話として桐野の本が一番ボリュームが少なかったのだ。

桐野の「残虐記」はよい意味で期待を裏切るものだった。おもしろかった。ボリュームの割に中身が濃い。後味もそんなに悪くない。しかも驚いたことに、この話は最初週刊アスキーに連載されていたのだという。へ~。

この話を読み終わってから、映画「世界残酷物語」を思い出した。いろいろな残酷シーンのあとに、見世物としての人間が提示される。残酷に見える動物たちの弱肉強食の世界よりも、実は人間が一番残酷なんじゃないかい? ということをこの映画は言っていたのだ。

では、桐野の「残虐記」は何を以って残虐とするのか? それは読んでのお楽しみ。

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片岡義男で悩む

学生時代からのお友達のBlogで「片岡義雄」の名前を出したら「アマゾンで検索したが、会計学の本しかないぞ」とか言われてしまった。

そうか、あの片岡義雄は経済学者になったのか。いやいやちがう、いや違う。

片岡義雄は私が80年代にどっぷりハマった小説家だ。代表作といえばやっぱり「スローなブギにしてくれ」かな?

当時は角川書店の若旦那が大いに威勢のよかった頃で、若旦那のお気に入りだった片岡義雄の本が続々と出版されたのだった。私はまたそれを次々と買いあさっていたのだ。

50冊くらいあったんじゃないか、と思って、コレクションをひっくり返してみると、こんなリストができた。文庫本のタイトルだけ眺めても、だいたいどういう内容だか想像が付くんじゃないだろうか?

1 ぼくはプレスリーが大好き
2 スターダスト・ハイウェイ
3 ロンサム・カウボーイ
4 スローなブギにしてくれ
5 マーマレードの朝
6 アップル・サイダーと彼女
7 ラジオが泣いた夜
8 人生は野菜スープ
9 彼のオートバイ、彼女の島
10 味噌汁は朝のブルース
11 ボビーに首ったけ
12 コーヒーもう一杯
13 ときには星の下で眠る
14 幸せは白いTシャツ
15 波乗りの島
16 いい旅を、と誰もが言った
17 町から始めて、旅へ
18 友よ、また逢おう
19 最終夜行寝台
20 限りなき夏I
21 吹いていく風のバラッド
22 夕日に赤い帆
23 俺のハートがNOと言う
24 and I Love Her
25 ターザンが教えてくれた
26 Ten Years After
27 美人物語
28 ドライ・マティーニが口をきく
29 一日中空を見ていた
30 湾岸道路
31 缶ビールのロマンス
32 彼女が風に吹かれた場合
33 B面の最初の曲
34 ふたり景色
35 誰もがいま淋しい
36 (シナリオ)メイン・テーマ
37 ボビーをつかまえろ
38 寝顔やさしく
39 心のままに
40 すでに遥か彼方
41 彼女から学んだこと
42 5Bの鉛筆で書いた
43 ふたとおりの終点
44 彼らがまだ幸福だった頃
45 メイン・テーマ1
46 メイン・テーマ2
47 ラストシーンの出来ばえ
48 彼のオートバイ、彼女の島2
49 微笑の育てかた
50 桔梗が咲いた
51 私は彼の私
52 メイン・テーマ3
53 タイプライターの追憶
54 バラッド30曲で1冊

何冊ある? 54冊? おかしいなぁ。「バラッド30曲で1冊」には55という番号がふられているのだけど。まだ数えてないけど、これのほかにも「コバルトシリーズ」とかいう少年向けの文庫本なんかもあったりするのだ。

大体の傾向は決まっていて、綺麗な女性と洗練されたりされなかったりする男がしゃれた会話をするわけだ。で、そういうのにあこがれる男がなんとかそういう生活に近づきたくて一生懸命読んだりするわけ。

でも一番最初の「プレスリー」はアメリカポップス原論みたいで興味深いのであった。

で、気になっていた「Guess who I saw today」の話は多分「コーヒーもう一杯」に入っていたのだと思う。また読んでみよう。

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少女マンガで悩む

もう3週間くらいまえになるが、新聞で少女マンガが手塚治虫賞をとったということが報じられていた。バレエを題材にしたマンガで作者は取材のためだか趣味なのかバレエ教室に通ったのだという。取材の結果、バレエ教育の世界でもいろいろな革新が起こっていることなどがわかったという。

「舞姫:テレプシコーラ」という漫画だ。作家は山岸涼子。

ウチにもバレエをかじっているのがいるので、読ませてみると面白いかもしれないと思って、アマゾンでとりあえず1巻から3巻まで買ってみた。娘に読ませてみると面白いらしく、3巻まで読んだ次の日に5巻まで、さらにその次の日には10巻まで買ってきた。第1部は10巻までらしい。

で、最後まで読んだ娘や家人が号泣である。それもただのごうきゅうではない。 というところで電池切れだ。続きはWEBで!

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というわけで、さっきまでWindowsMobileマシンで電車の中から書いていたのだが、こんどは続きをPCで書いている。

ただの号泣ではないというのは、つまり、読んでいるときに号泣するというのはまぁ普通だろうけど、読み終わってからも「思い出し号泣」なんてことをやっている。さらにその「思い出し号泣」につられて「もらい思い出し号泣」したりしている、なんにしてもただ事ではない。

なので私も読んでみることにした。読み始めてみると私は意外に漫画を読むのが遅いことがわかった。絵を丁寧に見ていくので、時間がかかるのだ。10巻を読むのに1週間かかった。

私は号泣することはなかった。泣きもしなかった。

しかし、この漫画の台10巻のインパクトはなかなかのものだった。私のその夜寝付かれず、浅い眠りの中で変な夢を見た。次の日は仕事にならなかった。

この漫画は現役バレリーナと作者の対談などあって面白い。おすすめだ。しかし、最終巻は休みの前の日に読むことをお勧めする。

また、本気で読む気になったひとには、WEBで検索しないことを勧める。ネタばれサイトが多いみたいだからね。Telepsh

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小悪魔になりたい女に悩む

Koakuma 「小悪魔な女になる方法」とかいう本が売れているらしい。読んでみると、なるほど面白い。

私みたいなオッサンがこの本にカバーかけないで電車の中で読んでたらおもしろいかな?(誰も見てない)

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おもしろすぎる時代小説に悩む

Damshie いぇね、普段はこんな時代小説なんて読みゃあしませんやね。たンまに長旅の慰みにってんで駅の売店でいつもは買わないような本を買ってみたりするだけでさぁね。

この本も、ちょっとした気の緩みで買ってしまったようなもんで、実はその題名に惹かれるところがあったもんでね。「だましゑ歌麿」という本なんですがね。もともと歌麿は好きだったし、「だましゑ」というのが大好きなエッシャーを連想させてくれてなんだか楽しそうだったんでさぁ。

650ページもある文庫本だったが、こりゃ楽しかったね。本ってのは読んでる間が一番楽しい。これでどうなるんだろう、とかはらはらしながら先へ進んでいくんで。

で、これってのは何かい? 活動写真になるって話はないのかい? 面白いと思うけどなぁ。

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メタボラに悩む

桐野夏生による朝日朝刊の新聞小説「メタボラ」が完了した。結局このタイトルはなんだったんだろうなぁ?メタ・ボランティアってことか?

メタボリック? なのか?

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クライブ・カッスラーに悩む

愛憎半ばするカッスラーの新刊(文庫)「極東細菌テロを爆砌せよ」を買ってしまった。

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宇宙消失

Uchu20050702 あるひとから本をいただいたのだが、これがなんとハードSFである。

昔からSFは好きだったが、ハードSFはなんとなく避けてきた。なんとなく、ではなくてつまり、理論の強引な押しつけが鼻に付くっていうのか、納得できないっていうのか、理窟に付いていけないというのか。

もともと、フツーのSFも避けるようになったのは「XXXX星人にとって、水は猛毒だったのだった」みたいなオチに辟易していたからで、そういうロジックがもっと理屈っぽくなったのがハードSFだという理解があるからだ。それは印象として今も変っていない。

さて、「宇宙消失」だが、読みはじめてすぐに不確定性原理のネタだな、と思った。読み進んでみると、私の思ったのとは違う形ではあったがやはり不確定性原理の話だった。

それよりも先に目に付いたのが「モッド」というしかけだ。このしかけは著者であるグレッグ・イーガンが著作の中で多用しているものらしいので、ここで説明してもネタバレにはならないだろう。

モッドというのはクスリのようなものだが、体の中で化学作用を起こすのではなくて、神経そのもの似物理的に働きかけるナノマシンなのだ。そのナノマシンを脳のしかるべきところへ運ぶにはそのために開発されたアメーバを使って、というから徹底している。

まぁ、そんなこんなでてんやわんやになるのだが、どうも最近のSFってのは夢がなくていけない。

思うに、SFは1980年代の終わりにはすでに行き詰まっていたんじゃないかと思う。生半可なSFはすでに科学技術によって追いつかれていて、科学技術によって追いつかれまいとするSFはハードSFにならざるを得なかったのではないか、と思っているわけだ。

1960年代のSFは幸せな時代だった。当時の科学技術はSFを実現するために存在したと言っても・・・言いすぎだが、手塚治虫が描いた高層ビルの間を縫うように走る高速道路というのは本当に実現してしまったものなぁ。こういったSFに出てこなかったのはケータイ電話だけだと思う。実生活のちょっと先を提示するものとしてのSFは夢のあるものだったし、リアリティも十分に感じられた。タイムマシンものにしてもなにかしらリアリティがあったものだったが(タイムマシンものと言えば広瀬正の「マイナス・ゼロ」が世界一である)今はそれにとって替わるのが惑星間飛行とか量子科学の話なんだろう。

ハードSFというのは難しい。書くのも読むのも、だ。書く方にしてみれば読者がどこまで付いてきてくれるか不安だろうし、読者も作者がどこまで行ってしまうのか、あるいはその前に作者がどういう読者を想定して物語を書いているかということが気になってしかたがないだろう。

「宇宙消失」についても、私の考えた不確定性理論の応用というのは特定オブジェクトの確率的な存在を制御することによってつまり「どこでもドア」を実現するというものだった。この予想は裏切られるのだが、確率を制御する(モッドで)というあたりがおもしろいと言えばおもしろいが、これは一般ウケしないんじゃないかなぁ?

というわけで、「ハードSFというのはやはり特殊な分野で、なかなか一般人は入っていけませんでした。」というふうな感想になってしまいました。

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バナナが耳に刺さってますよ~

Itami20050328 空港やターミナル駅の本屋というのは普通の本屋さんとは品ぞろえが違うような気がする。旅の直前のやや高ぶった気持ちで選ぶ本というのはやっぱりちょっと違うんじゃないだろうか。

そんなわけで、ちょっと高ぶっていた私は文庫本の腰巻きに付けられた「随筆をエッセイにした」「この本を読まずしてエッセイを語るなかれ」とうい惹句に惹かれて伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」というのを買ってしまったのだった。

ところがこれが大変におもしろいのだった。品川駅の新幹線ホームで「のぞみ」を待ちながら夢中になって読んでいたために、入線してきた車輌を確かめもせずに乗り込んだら、これが一本早い「ひかり」でしかも品川の次に止まるのが三島とう半端なやつで、せっかく買ったのぞみの指定席には座れず、ひかりの車中を右往左往(正確には前往後往)してまぁなんとか座れたのだが、まぁそんな話はいいや。

伊丹十三がこの本を書いたのはたぶん、40年以上前のことである。いや、今その本が手元にないので正確なことはわからないのだが。なにしろ「明日日本へ帰る」と書いておきながら「日本に着くのは月末ぐらいだろう」とか言ってる。かれは船で帰るつもりなのだ。そんな時代の話なのだ。

いやしかし、その中で語られることがおもしろいおもしろい。ひとつひとつ紹介したいがまぁそれはやめておこう。ただひとつご紹介するのはタイトルにいただいた「バナナを耳に刺した紳士」というイギリスの小話。イギリスの電車の中で向かいに座った人が耳にバナナを挿している。しかも半分ほど皮をむいたやつだ。それで、それを見つけた人は悩むわけ、いいってあげた方がいいんだろうか、それとも黙っているべきか、と。で、さんざん悩んだ挙げ句に「バナナが耳に刺さってますよ~」と言ってあげるのだが・・・。

そういうおもしろ小話だけじゃなくてウイットに富んだお話が満載で、結局私は新幹線の中で一睡もすることなくこの本に没頭してしまったのだった。

で、気がついてみると腰巻きが外れていてそこには「この本を読んでニヤッと笑ったあなたは本格的で、ちょっと変なひとです。」と書かれていて、これにはやられた、というか、イヤーこれってたいていの人はニヤッとするでしょう。

で、これを書いた伊丹十三氏は1997年に自殺してしまったのだな。彼は一体何を悲観したのだろうか?

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「最悪」「邪魔」奥田英郎

カタチあるものはすべて、いつかそのカタチを失う運命にある。熱湯も氷も放置しておくと室温の水になってしまう。部屋をキチンとかたずけても、いつのまにか散らかってしまうし、岩も長い年月の間には風化して砂になってしまう。

そんなふうにさせないためには、人為的な、あるいはなんらかの意志によって「再秩序化」することが必要だ。常温の水を熱湯にするにも氷にするにもエネルギーが必要になる。

これは「熱力学の第二法則」あるいは「エントロピー増大の法則」と呼ばれるもので、簡単に言うと「秩序あるものはすべて無秩序の方向へ向かう」ということだ。ちなみに「熱力学の第一法則」はいわゆる「エネルギー保存則」だ。エネルギーは不滅であってなくなることはないが、発散する。発散してしまったエネルギーは使うことができないということを言っているのが第二法則だ。

なんでこんなこと書いているのかというと、人生というのもそんなところがあるなぁ、と思ったので。漫然と暮らしていると、きっと人生は悪い方へ転がっていくのだろう。人生が風化していくのだ。

奥田英郎の小説は「邪魔」を先に読んでいて、その手法に興味を持っていた。複数の主要な登場人物を克明にリアルに描いてキャラクターとして確立させた後で、彼らの人生をグリグリとねじりあげてストーリーをひねり出していく。

各キャラクタのリアルさに引かれて読み進んでいくうちに、あれよあれよと言う間に彼らの人生が絡まりあい、ストーリーが展開していくのだ。キャラクタの動作のリアルさに比べて全体的なストーリーの練られ方が今ひとつだなぁ、というのが「邪魔」を読んでの感想だった(しかしなんちゅうタイトルだ!?)。

たしかに、そういう小説の作法というのはあるんだろうなぁ、と思っていて、筆力によって確立されたキャラクタが、「場」を与えられて行動を開始するというのもありえるだろうと思っていた。「邪魔」ではあちこちにそういう痕跡が見て取れて、リアルな描写が張りっぱなしで忘れられた伏線のように見えるところもあった。

「最悪」は「邪魔」の前に書かれた作品で、どうもこの手法を初めて使ったんじゃないかという気がする。「邪魔」は「最悪」での成功に味を占めてさらにこの手法を頭(ズ)に乗って展開したような感じだ(しかしどちらもなんちゅうタイトルだ!?)。



うん、いや、それで「最悪」を読み始めて思ったことが冒頭の「人生はほうっておくとどんどん悪い方へ転がっていく」ということなのだ。比較的平凡な生活を送っている主要キャラクタたちがいろいろな選択をするたびにどんどん悪い方へ落ちていく。もちろん、それが作者の意図なので、そこで作者の思惑とかが入るわけだが、そのあたりで作者のキャラクタに対する愛情のなさが露呈されている。

つまり、この小説は結果として(その手法の如何にかかわらず)平凡な生活を生きている人がいかに落ちて行くか、あるいは人生を風化させていくかと言う話なのだ。だから、はっきりいってこの話はおもしろくないよ。私なんかはあるキャラクタの悲惨な落ちざまに耐えられなくて、その人が落ちていく様子のところを飛ばして読んでいたくらいだ。

人生を風化させないためには、その再秩序化が必要だ。それは夢であったり希望であったり、人生のイベントであったり、他人との関係性であるのかもしれない。この小説の登場人物のように作者(あるいは不特定の誰か)の意図によって人生がどんどん風化しないようにするにはどうしたらいいのか、小説の登場人物ではない本当にリアルな我々は真剣にそれを考え続けなければならない。

この作品は「犯罪小説のターニングポイント」とか言われているようだが、私はお勧めしない。人の不幸を心の底から喜べる人にはきっと楽しいことだろうと思う。

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「クルドの暗殺者(上/下)」 スティーヴン・ハンター

Kuldo20040930 クルド民族というものにまず興味があった。と言っても、知っているのはサダム・フセインがクルド民族の村で化学兵器を使って虐殺を行った、ということくらいだったのだが。

この本を読んで知ったことなのだが、クルド族というのは人種的にアーリアの血が入っているのだそうだ。つまりいわゆるアジアというかアラブというのではなくて、むしろ西欧系なのだ。目が青かったりするわけだ。それでなんとなく他の中東民族からは違和感を持たれているんだろうか?

クルド民族はユダヤ民族のように国家を持たない民族である。昔は持っていたのかもしれないが、とにかく今はないわけで、クルディスタンと呼ぶその理想郷を今も求めているのだが、アメリカがその野望を利用してフセインを牽制しておきながら、肝心なときになって捨て駒としてしまったという過去がある。先に挙げたクルド人虐殺もそういう流れの中で起こったことらしい(実はよく分かっていないので、間違えているかも)。

そういうわけで、クルド人というのは中東では孤立した人種らしい。あたかもユダヤ人が世界のあちこちで違和感を持たれているかのごとくである。この辺も私がよくわかっていないところなのだが、なぜヒットラーはあれほどにユダヤ人を目の敵にしたのか? そして世界中のいたるところで、いたる分野でユダヤ人が活躍しているのはどうしてなのか? さらには日本人がそのユダヤ人になぞらえられたりするのはどうしてなのか? きっとなにか共通するものがあると思うのだが、単に「出る杭は打たれる」ってことなのか?

この小説は1982年の出来事として書かれているのだが、作者のハンターは「書くのが10年早かった」と述べているそうだ。たしかに中東が世界の火種として注目され出したのは1990年代にはいってからで(そうだっけ?)、1982年と言えばまだ米ソの緊張が続いていた頃ではなかったか(すみません、まだ確認してません)。


一方、私はこの作者のスティーヴン・ハンターの作品をすでにいろいろ読んでいた。ベトナムに於けるアメリカ軍の狙撃兵であったボブ・スワガーを主人公とする「極大射程」とか「真夜中のデッドリミット」などの一連のスナイパーものだ。

こういう銃器ものはえてしてそのメカニズムに捕らわれたテッポウ・ヲタクっぽいモノになりがちだが、この作者の作品はそのオタクの域を超えた水準に達している。具体的にどういうところがかって言うと、まぁ人物描写とか、背景の考察とか、プロットとかかな。

で、その作者がクルド物を書いたということでこの本に注目したわけだが、心配なことが一つあって、それはこの作品がハンターの初期の作品だったのに今まで日本には紹介されずにいたことだ。そういうのって、「ああ、やっぱりね」ということが多いんだな。

やっぱりというか、なんだかクライマックスが妙にはやめにきて、しかも失速している。小説としてはいまひとつの出来だとは思う。でもこれはいい本だ。小説としての出来よりも、リアリティを大切にしているような感じを受けた。リアリティと、小説としての作法のバランスをどう取るかということを試してみたような作品だと言えるのかもしれない。

リアリティと言えば、この作者はおそらく戦争に行ったことがあるのだろうと思う。銃に関する描写が異様にリアルだから。ひょっとしたら本当にスナイパーだったのかもしれないな。

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君のために生きる

Aitomakotoirasuto 「きみのためなら死ねる」というゲームの前評判が高いようだ。といっても単にそのイメージソングが先行的にリリースされてネット上で話題になっているだけで、ゲーム本体のほうは全くなぞなのだが。

ところでこの「きみのためなら死ねる」というフレーズは、もともとマンガの台詞だった。ある意味歴史的な作品だった「愛と誠」の中でたしか岩清水とかいうお勉強のよくできる男が主人公の「誠」君と「愛」ちゃんを巡って争うのだが、そのときに岩清水が愛に対して言うキメの台詞だったのだ。ちなみに愛ちゃんは「早乙女愛」という名前だった。誠の方は「大賀誠」だったと思う。

「愛と誠」が連載されたのは少年マガジンだったかな? 当時はギャグマンガ全盛の時代で、「愛と誠」のような純愛路線というのはちょっと考えられなかったので、私なんかはこれが始まったとき、きっと途中でずっこけが入るものだと期待して読み続け、その週ではついにそういう場面がなかったので、「次週まで引っ張るのか、凝ってるなぁ」と思っていたのだった。

で、この「愛と誠」は原作がたしか梶原一騎だ。私はこいつが大嫌いなので、「愛と誠」も話としては大嫌いだった。従って「君のためなら死ねる」という梶原フレーズも鳥肌が立つくらいに嫌いだ。

「きみのためなら死ねる」というのなら、「じゃぁ死んでみろよ」と突っ込みたいところだが、もしも本当にそんなこと(死ねる)言われたら、それは言えないでしょう。そこまで見越していっているので、衝撃的であるようで実はなんの意味もない言葉なのだ。果たされることのない約束だ。

男:君のためなら死ねる。

女:じゃぁ死んで、今すぐ死んで、ウザイからあたしのために死んで。

男:いや、そういうんじゃなくて、ちゃんと君のためになるカタチで死にたいから、そんなのはいやだ。

女:じゃぁ、仕事の関係で死体がひとつ必要だから死んで。

男:いや、それってきっと君のためにならないと思うんだ。そういうカタチでは死ねないな。

女:じゃぁ、どういうカタチならいいの?

男:例えば通り魔から君を守るためにずっと君と一緒にいてあげるよ。

女:それがウザイって~の。


それよりも、「君のために生きる」という方がよほど重みがあると思うのだ。なにしろ死ぬのは一回きりだが、「君のために」生き続けるということを約束するのは、これは重いよ。

もしもあなたが「きみのためなら死ねる」と言われたら、「そんな怖いことは言わないで、それよりも私のために生きることを考えてください。」と言いましょう。その方がずっとお得です。

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ロバート・ゴダード

 で、ロバート・ゴダードだが、私がよく行く書店に平積みされていたので読んでみようかという気になった。面白いと思ったのは文春文庫と創元文庫の両方から重なり合うことなく何冊かが出版されているということで、こういうのは珍しいんじゃないかな。

 「蒼窮のかなたへ」は文春からでている2冊目で、「ダメ男の・・」と書いてある腰巻きに惹かれて買ってしまったのだった。


 特に頭がよいわけでもなく、特殊な技能を持っているわけでもなく金持ちでもない男が幸せになるためには何が必要だろうか? それは幸運か、あるいは愛情に裏づけられた執念だろうか? いやその、ちょっと気取ったことを書いてみたかったので。

 非凡な主人公が活躍する物語りは、いっちゃ悪いが誰でも書けるんじゃないだろうか。しかし、平凡な主人公を活躍させるには作家は非凡でなくてはならない。そういう観点から「ダメ男もの」というのが私の興味を惹いたのだが、やはりこの作者はただ者ではないと思う。実はまだこの本読み終わっていなくて、下巻に入ったところなのだが、いろいろな謎が熟成していきつつも主人公が真実に迫る様子が興味深い。LAコンフみたいに登場人物が多いってわけでもないし。

 ただ、下巻に入って私はちょっと混乱している。誰かこの本を読もうという人がいたら、上巻で「5月22日」という日付と、「アンソニー・セドリー」という名前が最初に出てきたページを教えてもらえないだろうか。

***

 19世紀末のイギリスあたりに婚約しているカップルがいたと思いねぇ。で、その男の方が結婚式の数日前に自殺してしまったと思いなよ。女性の方はそりゃ落ち込むわなぁ。で、そこへつけこんでその女性と結婚してしまった男が主人公となっている小説がロバート・ゴダードの「闇に浮かぶ絵」なのだが、この主人公が結婚して10年ほど経ったころにその自殺したはずの男が生き返って現れたからさぁたいへん。

 というところまで読んだが、この先一体どうなることやら。

 ロバート・ゴダードの小説は以前に「蒼穹のかなた」を読んで、その後「日輪の・・・」というのを読んだ。これはレポートを書くのをサボってしまったが、実はすごくおもしろかったのだった。つまりいわゆる「超能力」は数学の素養を得ることによって可能になるという仮設を前提にしていて、読み進むとそうかもしれないな、と思った方がおもしろいかな、と思うようになってくるという次第。

 そういうわけだったので、今回の「闇に・・」はあらすじもなにも読まずに著者名だけで買った。最初はすごく読みづらかったのだが、要するに先に書いたようなことなので先行きが楽しみです。

 で、「闇に浮かぶ絵」読了。う~む、最後の方でショッキングな事実が暴露されるのだが、これの受け取り方でずいぶん評価が変わってくるのではないかな。それも日本人と欧米人ではずいぶん解釈が変わるだろうと思うのだ。

 全般的にさすがゴダードで複雑な作りにはなっているのだが、私としては「日輪」の方がおもしろかった。ともにストーリー・テラーとしての形式的な主人公のほかに実際の主人公がおり、さらにその奥には真の主人公がいるという点では共通しているので、「人生の中では誰でも主人公になりうるのだ」というふうなトンチンカンな受け取り方もアリなんじゃないでしょうか


リオノーラの肖像/ロバート・ゴダード

 ここのところ、ゴダードの作品をよく読んでいるのだが、これはひとつにはアメリカ製の小説のハリウッドを意識した内容(映画化を意識したような派手なシーンが多い)に辟易しているからで、イギリスのどちらかと言えばセコい話の方が私の性に合っているのかもしれないとか思ったりもする。

 しかし、ゴダードの作品ってのはなかなかハッピーエンドにはならないよなぁ、アメリカの売れ筋小説だとたいていハッピーエンドなんだけどなぁ。などと考えながらこの小説を読んでいたのだが、考えてみると、ゴダードの小説ではまず主人公というものがはっきりしなかったりあるいは存在感が薄かったり、もう死んでいたりするわけで、そんな主人公が最後に勝利するということはなかなかに難しいことではあるわけだ。

 で、ふと思ったのだが、ゴダードの小説の中では最後に何が勝利するのかというと、それは(作者の作った)真実である。つまり作者の作った複雑なストーリーが真実として最後に勝利するのであって、読者はそれに翻弄されることを楽しんでいるわけだ。


 そういうわけで、「リオノーラの肖像」も複雑な構成になっている。全体が「リオノーラ」の回想になっているのだが、その回想の中にまた重要な人物の回想が入っており、さらにまたその中に回想やら人の話の引用が入ったりで、読んでいる時にたびたび「今、誰が誰に話しているんだっけか?」と確認することが必要になる。


 で、まぁそのリオノーラ自身こそが作者の真実に翻弄されているわけなのだが、その翻弄されっぷりがまたすごいので、まぁある程度は先が読めるのだが読めてはいても作者によるその提示の仕方がうまいっちゅうか、まぁそこんとこで読んでて泣いてしまったのだが、これは子供を持っていないと泣けないかもしれない。ちなみに私が泣いたページ数は3桁の数字なのだが、その3桁の3つの数字を足したときの1の位の数は8になる。

 本を読んでて泣いたのは久しぶりだったような気がしたので、もう一度読み返してみたが最初の半分くらいは泣けた。3回目はほとんど泣けなかった。

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ジェームズ・エルロイ

初めてジェームズ・エルロイの名前を知ったのは「ホワイト・ジャズ」という小説の作者としてだった。「ホワイト・ジャズ」という本はもちろんその「ジャズ」というところに興味があって買ってみたわけだが、それを読み終わってこの本が四部作の最後の一冊であることを知り、そのシリーズを最初から読み返すことになる。

その4冊とは、

「ブラック・ダリア」

「LAコンフィデンシャル」

「ビッグ・ノーホエア」

「ホワイト・ジャズ」

だった。この四冊を一挙にまとめて映画化したのがアカデミー賞映画「LAコンフィデンシャル」だった。この映画をみたのはこれらの小説を読む前のことで、正直言って何のことやら全然わからなかった。これらの4冊を読んで、やっと映画の筋がわかり、もう一度読んだときには完全に理解できた。

書かれてあることは、要するにロサンゼルスの暗黒街と腐敗した警察、検事局の組んずほぐれつの戦いの日々というものなのだが、筋がよく分からなくてもドンパチだけでも楽しめるということでアカデミー賞となったのだろう(違う)。

で、このジェームズ・エルロイというひとの書いた本を見つけたので買ってみたわけだ。「ハリウッド・ノクターン」というのがその題名で、中身は短編集なのだが、上記のLA4連作に当てはまる時期の隠れたエピソードのようなものが綴られている。

ジェームズ・エルロイはどうやらそのころ実在した人物にいろいろインタビューして事実関係を把握し、その上で架空の自分物を創作して物語を作ったものらしい。実際、4部作のあちこちが活躍するミッキー・コーエンというギャングは実在したらしいし、ハワード・ヒューズはもちろん実在する。

この人の短編を読んでいて、野坂昭如の初期の作品を思い出した。野坂の初期の作品はTV業界の話を書いたものが多かったのだが、その業界の人々を熟知している野坂は、それらを群像として描くのではなく、一人一人にスポットライトを当てて、一人一人を主人公にした短編を多数書くという方法を取った。

だから、野坂のある短編の主人公は別の短編ではわき役になったり、主人公と対立する立場になったりする。

これはおもしろい手法だと思った。実際人生というものはそういうものだし、「人生とは、ひととひととが織り成す綾織りのようなものである」というフランスのことわざがあるくらいだ。

エルロイのこの短編集を読んで、二次大戦末期のLAの怪しい肥土人の群像を結ぶものが見えてきたような気になってくる。これはおもしろい体験だった。また4部作読まないと。

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喪失の国,

買いたいと決まっている本を買うならAmazonだが、やはり本屋には行ってみるもんだ。「インドのエリートビジネスマンが見た日本」というテーマにまず惹かれてしまった。実は今、仕事でインド人と付き合うことがしばしばあるのだ。中国もとんでもない国だし日本もとんでもない国だが、インドもやはりとんでもない国なのだ。

日本に来たインド人に聞いた話では、インドには24の県があり、そのそれぞれで言葉が違う。だが共通語としてのヒンズー語(彼らは「ヒンディ」と言う)、公用語としての英語があるので、例えば日本へ来るような仕事をしているひとはたいていその3種類の言葉を話す。インド人同士でも英語でしゃべっているのは、ヒンディよりも使いやすいからなのだろうか?


まぁ、そんなこんなで立ち読みしはじめたこの本なのだが、そのまえがきを読んでぶっ飛んでしまった。これは買うしかないと思って買って帰り、読み始めると、これは予想にたがわず、どえらくおもしろい。

開発途上国の人間が先進国へ旅をして紀行文を書くとたいていおもしろいものになる。それはたいていの場合、そういう旅に行かせてもらえるひとが並大抵のひとではないからで、この本の筆者もさすがはエリートと思わせる。インド人に関する私の疑問(それも直接彼らには聞けないようなこと)もいくつか明らかになったりした。

ちょっと脱線すると、そういう「開発途上国からの視線」としては「パパラギ」という先輩がいる。これは南国の酋長がヨーロッパを旅した見聞録を自分の島の人たちに報告した文章で、文明に対する驚きだけでなく、かなり的確な文明批判となっている点についても注目された。実は私もこの本を会社の新人教育のテキストとして使ったことがある。

まぁ、そんなわけで楽しく読み進んでいたのだが、これはもともとヒンディで書かれていて、それを英語に訳したものをさらに日本語へ訳したということから、きっと英語版とか、ひょっとしたらヒンディ版とかもあるのかもしれない、と思って検索してみた。

すると、ううむ、検索しなきゃよかったかな、と言うふうな結果が現れてしまった。つまり、この本はインド人が書いたのではなく、前書きに紹介されているような発見話も含めて全部日本語訳者の創作なのではないか、との指摘がなされているというのだ。

どうやら文藝春秋社発行のこの本に対して、週刊朝日あたりがツッコミを入れたらしい。アサヒのインタビューに対して著者の山田和氏は「書いてあることは真実です」とのみ答えたそうだ。歯切れ悪いなぁ。

たしかに、そういわれてみると日本語訳が妙にこなれているのが気にはなっていたし、「いつのまにそんなメモとったの?」というくらい日本の事象についての描写が正確なのにもちょっと変だなとは思っていた。特にインド人が日本で世話になったという「佐藤サン」の言動が完璧な日本語として再現されているのが私には納得行かないところだった。「向こう三軒両隣」という言葉が英語で話されてヒンズー語で記録され、また英語に訳された後、さらに日本語に訳されて元の言葉に戻れるわけはないと思うのだ。

そんなわけで、インド人が書いたものと信じて読めばもっと楽しかっただろうにと思いつつも読んでいるわけだが、それでもこの本は大変におもしろいのであった。

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構造主義とは

Kozoshugi ちょっと小難しい哲学の本なんか読んでます。「寝ながら学べる構造主義」という本で、「よい入門書とはどういうモノか」というところから始まっているあたり良心的なのか、それとも単に理屈っぽいだけなのか。

半分くらいまで読んだところでは、つまり構造主義というのは「あんたは自分で考えているつもりでも、実はそうじゃないんだよ。周りの状況によってそういうふうに考えさせられているだけなんだよ。」ということのような気がする。

で、この構造主義というのは現代のこの世界ではすでにあたりまえのこととして政治や経済や日常生活に浸透しているということなのだが。

この辺をちゃんと理解すると、人の気持ちが分かったり、自分の気持ちをコントロールしたり、つまりもうちょっと大人になったりするのかなぁ。

同じ著者の「映画の構造分析」というのも買ってみたが、まだ手をつけていない。

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サン・テグジュペリのP38

Lp38 サン・テグジュペリの乗っていた飛行機が発見されたのは4月の初めだっただろうか。

P38のタービン部分の部品番号から彼の飛行機だと判明したらしい。コルシカ島の近くだったということだが、私には何のことだかよくわからない。

サン・テグジュペリと言えばもちろん「星の王子様」だが、私はこの本を読んだことがない。演劇として見たりしてだいたいの話は分かっているつもりだから、特に本で読み直す必要もないと思って。

それよりもこの人の書いた「夜間飛行」とかタイトルを忘れたけど南アメリカの郵便飛行事業をテーマにした作品のほうに惹かれるものを感じていた。「飛行機なんて使い物になるもんか」というふうに言われていた時代で、そういう逆風の中をパイロットとして飛んでいたサン・テグジュペリはよほど飛ぶのが好きだったのだろう。

だから、サン・テグジュペリは私にとっては「星の王子様」の作者ではなく、空飛ぶ随筆家なのだった。それもちょっと屈折した随筆家だ。郵便飛行事業の矛盾した危険な業務に反感を感じつつも自分の責務と、自分と同じような境遇にいる同僚に対して忠実だったのだろう。

そんな彼が消息を絶ったのは1944年7月31日、最新鋭のロッキードP38「ライトニング」に乗って偵察飛行に出たきり消息不明となったと聞いていた。ここで急にP38が出てくるのだが、これはすごいことである。なぜならサン・テグジュペリは複葉機のような旧式の飛行機の時代に操縦を会得していたが、そのころの技術だけではこの最新鋭機に乗ることはできないはずだったからだ。



P38は双発端座の戦闘機で、ゼロ戦などの二次大戦中の主力戦闘機に対抗して設計されたものだ。主翼後端の上の胴体に黒いものが見えるが、これが排気タービンで、これによって1万数千mという超高空での機動性を確保していた。高々度で虎視眈々と機会をうかがい、敵を見つけるとその高速を活かして一撃離脱する戦法を得意としていた。

なんでそんなP38で偵察飛行に出たのかはよく分からない。そもそも彼はこの時期すでに軍人ではなくて民間人の資格で戦闘機に乗っていたというのである。それでしかも偵察飛行? よくわからないなぁ。

一説にはサン・テグジュペリの飛行技量を疑問視するむきもあるらしい。いろいろと事故に遭ったことも多かったらしいから、たしかにそうなのかもしれない。きっと冒険心と技量のバランスの問題だったんだろうな。

この件についてWEBを探ってみると、マンガふうに撃墜された様子を表現してあったり、海底に沈んだ実際の機体などが散見される。フォッケウルフにやられたのか。

60年前になくなったひとのことをいまさら悼んでみてもしかたがないとは思うけれども、「夜間飛行」をまるまる一冊読んだときには、ああ、このひともこんな死に方をしなくてもよかったのに、と思ったもんだった。44歳か。WESも44歳だったな。

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